僕はかなりの頻度で「目が死んでる」と言われる。人の目を脳死みたいに言わないでくれよ。

「目が死んでる」って言われ続けて気づいたのだけど、だいたい二つの意味で「目が死んでる」というフレーズを使われる。
  1. 笑わない(笑ってても、目だけ笑ってない)→転じて、協調性が無い
  2. 人間の感情を分析しようとしている→転じて、感じ悪い
この二つだ。

前者はもう仕方がない。愛想笑いは苦手なので面白いと思った時にしか笑わない。笑えない。

親しい友達には「俺は俺のためにしか笑わない」と宣言しているので、一定の理解はしてもらえてると思っているが、親しくない人からはサイコ野郎だと思われてるだろうなあ。まあ実際サイコな部分もあるので否定できないが。

問題は後者。目死人(めしにびと)は他人の喜怒哀楽に必要以上に敏感だということを心に留めておいてほしい。

僕は舞台上に立っている人を見るのが苦手だ。例えば、役者が舞台に立つということは、何かを表現すること、何かを表現するということは、誰かの喜怒哀楽をコントロールしたいということ。喜劇を演じるなら「喜」を、悲劇を演じるなら「悲」を感じてもらいたい。目死人にはとうてい理解のできない難易度のタスクに立ち向かっている。すごい。

舞台上に上がった人を見る観客は残酷だ。舞台上で行われるのが喜劇でも悲劇でも、喜怒哀楽の自由がある。おまけに「無」という選択肢まであるから恐ろしい。

役者と観客の間にぐにゃああ〜と渦巻く感情のやりとりを目の当たりにすると、本当に心が疲れる。僕はミュージカルやダンスなどの催し物に顔を出した時は、観客の顔ばかりを見てしまう。笑うところだったのに笑ってない人がいる…!とかばっかり気にしてしまう。

あえて「ミュージカルやダンス」を取り沙汰したのは、ミュージカルやダンスに出演する人は「目が生きている」を超えた「目が輝いている」人々だからだ。目輝人(めかがやきびと)は純真無垢な努力家で、失敗すれば膝を抱えて泣くし、成功すれば両の手を突き上げてガッツポーズをする。要するに、目死人から最も遠い存在であるがゆえに、ただただ"得体の知れない"存在なんですすいません。

目死人と対極をなす目輝人は、優れた表現者になり得ると思う。迷いの無い彼らにしか表現できないものがある。「お客さんが僕の演技を見て元気を出してくれたらいいな…心配事が吹き飛ぶような演技をしないと。どう表現したら心配が消し飛ぶかな…?心配ない…心配ない…そう、心配ないさ…」と、愚直に向き合った末に渾身の力で演じる「しーーんぱーーい、ないさああぁーーーーー!!!!!」は、目輝人にのみ許された表現なんだ。

しかし努力はウソつきだ。目輝人が愚直に努力すればするほど、刺さらない人にはより刺さらなくなる。すると、前述の"役者と観客の間のぐにゃああ〜"が更にぐにゃぐにゃになって、目死人の僕は心を削られてしまう。つまり(まわりくどい言い方になったけど)、ミュージカルやダンスはちょっと苦手なんですすいません

お笑いは大丈夫。お笑いは目死人が作っているから。バカリズムとか若林とか、完全に目死人でしょう。目死人はネタを披露してもしスベっても、自分が傷つきたくないからすぐに何がダメだったかを無理矢理にでも咀嚼して消化する。(してるはず)

もうひとつ、目が生きてる人に覚えて帰って欲しいのは、目死人は常に自分を俯瞰で見ているもう一人の自分がいるということ。漫才をやっている自分の後ろに漫才をやっている自分を見ているもう一人の自分がいて、「よし、今のところ想定通りウケてるぞ。」と思っているし、セックスしてる自分の後ろにセックスをしている自分を見ているもう一人の自分がいて、「ダサいセックスしてるな、おれ」と思っている。ややこしいことに本番と反省会が同時に開催されちゃっている。

ガンダムにニュータイプってのが出てくるけど、僕はこれが目死人のことだと勝手に思っている。なんかのインタビューで富野監督がニュータイプについて聞かれた際に「隣人に共感したり優しくできる能力」と答えていたのだが、これって言い換えると「他人の喜怒哀楽に敏感」ってことじゃないか。

ニュータイプの能力が強い人は、遠くの地で行われた大量虐殺にメンタルが共鳴して具合が悪くなったりするのだが、これも言い換えるとミュージカルでスベってる会場にいるだけで心が削られる僕と同じことじゃないか。

ただのひねくれ者と思ってもらっても結構なんだが、目死人は無表情の奥にめんどくさいメンタルを抱えていることをお見知り置きください。