アイデンティティのなくなり方
会社を辞めて、家も捨てて、転々とするうちに気づいたことがあります。
いく場所いく場所で、めちゃくちゃな頻度で「錦織圭に似てる」って言われるんです。
初見で入ったお好み焼き屋で「わかった!錦織圭に似てるんだ!」と言われ、次にそのお好み焼き屋に行くと「圭くん、いらっしゃい!」と言われ。覚えてもらうのに錦織圭という看板は本当に便利です。
便利なので、僕はもう錦織圭として振る舞うんです。「あん時のフェデラーは本調子じゃなかった」とか「マレーにはマレー(稀)に勝てますよ」とか、口八丁。
しかし便利な反面、「圭くん」と呼ばれるのは少し複雑な気持ちもあります。「太一」という自分でも割と気に入ってる名前があるし、錦織ネタ以外でも楽しい話ができるようなネタはあるし。
そんな毎日が続いているので、自分のアイデンティティってどこにあるんだろう?と考える機会が多くなりました。
アイデンティティを失う瞬間とは
アイデンティティと言われると思い当たるフシがあります。大学に入学した18歳の頃に思いを馳せてみましょう。
僕は東京で育って、東京の大学に通いました(もしかしたらキャンパスは神奈川かも)。それまで自分が積み重ねてきた人生を、そのまま大学でも積み上げていこうと、ごく自然に考えていました。
でも、僕がクラスメイトを見る目は違いました。
入学と同時に一瞬で大量にクラスメイトとなった同世代の男女。彼らがこれまでどんな人生を積み上げてきたのかを、ひとりひとり把握するのなんて無理ですよね。だから①顔②名前③特徴、この三つを突き合わせる作業をクラスメイトの数だけ消化する必要があったんです。
体操が得意なトミー、甲子園球児のミヤ、関西弁のチヒロ、新聞配達のニンニン、童貞の小平…とまあこんな調子でクラスメイトを雑にラベリングしていくんです。(当時僕も童貞でした小平ごめん)
要するに、人間は環境を大きく変えると瞬間的にアイデンティティが失われるんです。大学生なんかは4年間一緒に学ぶので、互いのアイデンティティは少しずつ認識できるからまだいいです。例えば子供が生まれて「○○君のお父さん」とか呼ばれ始めると、その雑に貼られたラベルを剥がすのは至難の技ですよね。
セルフブランディングでアイデンティティは取り戻せるか?
雑に貼られたラベルを剥がすために始まるのがセルフブランディングです。
セルフブランディングとは、読んで字のごとく自分をブランディングすること。「俺のことをこう思ってくれ」という願いを日頃の生活に織り交ぜる手法です。
前述した童貞の小平は、あまりにも雑なラベリングに苦しんで、特技であるブレイクダンスをことある度に披露してセルフブランディングしていました。
でもセルフブランディングとアイデンティティは別です。当たり前ですよね、セルフブランディングはあくまでも自分で仕掛けた自分のための戦略です。
でも、セルフブランディングが完璧にキマれば、それは他人から見たあなたのアイデンティティにはなります。あなたにとってのアイデンティティではありませんが。
童貞の小平がブレイクダンスでクラスメイトからの認知を完璧に得たならば、クラスメイトは「小平のアイデンティティはブレイクダンスだよな」となります。
でも、小平が地元に帰ったら、地元の友達からは「やっぱり小平は村一番の笹笛の名人だよな」と言われているかもしれないわけです。
過度なセルフブランディングの末路
個人的には環境が変わるたびにセルフブランディングするのは危険だと思います。
例えば、職場の上司が「宴会部長」としてセルフブランディングしてたとします。でも上司は中学時代に「万引き常習犯」として知られていたら、人生のストーリーの整合性が微妙になってしまうからです。
今の時代、ネットで調べればわからないことなんてありませんから、上手に八方美人にしてるつもりでも簡単に破綻してしまいます。宴会ではしゃいでる姿をかつての万引き友達がネットで探すことなんて容易いですし。
下手に「こう思ってもらいたい」とか考えると、袋小路にハマってしまうので、いつでも、どのコミュニティでも、自然体の”あなた”でいることが、これからのアイデンティティないしセルフブランディングの形なのかなぁ、と思った次第です。
そういや中学の時ドレッドヘアーにしたくて石鹸でギシギシ髪の毛洗ってたなあ(雑なオチ